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伝説のトレーダーと呼ばれた金融のプロフェッショナル 藤巻 健史さん

伝説のトレーダーと呼ばれた金融のプロフェッショナル 藤巻 健史さん

今回の登場は、経済評論家及び金融コンサルタントとしてテレビなどでご活躍の藤巻健史さん。
藤巻さんは大学卒業後、三井信託銀行に入社し、トップセールスマンとなる。その実績が買われ、ケロッグ経営大学院(以下、ケロッグ)に社費留学し、1980年MBAを取得。その後モルガン銀行に転職をはたし、他の追随を許さぬほどの成果を上げ、「伝説のトレーダー」と異名を得るまでになる。1995年には当時、東京市場では唯一の日本人東京支店長を務め、2000年に退社し、ジョージ・ソロスのアドバイザーを務めた。
現在、金融コンサルタント、経済評論家、大学で経済学講師として活躍しながら、「日本破綻」、「マネー避難」、「フジマキに聞け」など数々のベストセラーを生み出している。株式会社フジマキ・ジャパンの代表取締役。

人生の「逆張り」は選択と試練の連続

藤巻健史さん

こうして藤巻さんの経歴を連ねてみると、失敗や挫折知らずの人生のように感じられる。しかしその輝かしい経歴は、常にギリギリの選択を迫られ、極限の状態を耐え抜いて得た結果なのである。藤巻さんがトレーダーとして並々ならぬ成功を収めたのは、常に市場の「逆」を選択し続けたからだ。

この「逆張り」と呼ばれる手法はハイリスクハイリターンに他ならず、失敗時の損失は想像を絶する。藤巻さんの並々ならぬ金融知識をもってしても、時間でいえば7対3くらいの割合で「負け」ている時間の方が長い。
(※もちろん利益額では勝っている。そうしなければマーケットから消え去る運命だ。)
その「負け」ている時にプレッシャーに耐えるのがトレーダーの仕事なのだ。

「ほとんどのトレーダーは、精神的にもたないんですよ。重圧に耐えられなくなって数年でやめてしまうんです。」

藤巻さんには、「負け」のプレッシャーに決してつぶれない強靭な精神力があった。もち前の負けず嫌いな性格から、「負け」の損失を取り返すことに全身全霊を注ぎ、最後には「勝ち」に繋げてきたのである。

藤巻さんの「逆張り」という選択は、トレーディング面だけに限らない。彼がモルガン銀行に転職を果たした1980年代といえば、日本は終身雇用制真っ盛り。転職など誰も考える時代ではなかったし、もしモルガンで失敗すれば二度と職に付くことは不可能だと思われた。そうなってしまったら、ハイヤーの運転手にでもなろうかと考えたと藤巻さんはいう。

ケロッグ留学で得た自信

そこまでのリスクを冒して藤巻さんは何故モルガン銀行を選んだのか。それにはケロッグ留学で得た「アメリカと対等に渡り合える自信」が後押ししている。当時の日本人は皆、アメリカや英語に対してコンプレックスがあった。それが実際アメリカで学び、アメリカ人と接してみて、英語力はそれほどでなくても対等に口論することができることを知ったのだ。そして藤巻さんは、自分の活躍の舞台を「日本」ではなく「世界」を基準に考えるようになる。

また、三井信託銀行時代トップセールスであったにもかかわらず、藤巻さんはその仕事がどうしても好きになれなかった。ケロッグ留学を望んだのも、もともとはセールスの仕事から解放されたい一心だったのだ。

こうしてモルガン銀行に転職し、トレーダーとして挑んだ最初の仕事で、藤巻さんは大きな「負け」を経験する。その時の藤巻さんの表情は、彼の妻をして「失業した友達のご主人と同じ顔をしている」と言わしめたほどであったという。

モルガン銀行への転職から栄光を掴むまで

しかし、完全実力主義の外資系銀行の仕事スタイルは、藤巻さんの性質にとても合っていた。ちくいち管理されることなく自分の裁量で仕事を押しすすめ、その結果は給料・ボーナスによってもたらされる。よい成果を上げれば、知名度はかけ算的に上昇する。藤巻さんが自分のマーケット観を知らしめる目的で発行していたマーケットレポート「プロパガンダ」は、徐々に世界中の市場関係者必読のレポートとなっていった。

藤巻さんが「伝説のトレーダー」と呼ばれるまでになった頃、モルガン銀行はいち早くEメールを推進するようになる。ファックスや電話による情報配信が普通だった時代において、藤巻さんはこのEメールを誰よりも駆使した先駆的人物であった。Eメールによって藤巻さんが発信したマーケットコメントは、世界中の市場関係者に転送され、あっという間に広まる。その勢いが彼の実績とあいまって、実際に市場を左右するまでの影響力を持ったのである。この頃の藤巻さんは、同行東京支店の一年間の収益の大部分をひとりで稼ぎ出すまでになっていたという。

藤巻健史さんの新聞記事

こうして見ていくと、藤巻さんの選択は常に、「人の一歩先」を見据えている。他人に頼らず、必ず自分で選択し、その選択の責任は自分で取る。

「私はラッキーだったんです」と笑顔で言う藤巻さん。しかし、そのラッキーを自ら掴み取る判断力・行動力が、彼の並々ならぬ成功へとつながっている。

ケロッグ留学で出会った運命の親友

「この人は、本当に頑固なんですよ。仕事でも何でも、とにかくしつこい。絶対に途中でなげたりしないんです。」
と苦笑しながら語るのは、藤巻さんの愛妻、綾子夫人だ。夫人は藤巻さんがケロッグに留学している時を知る人物のひとりである。

「夫は、ケロッグでは人一倍勉強したと思います。自分は日本人だというハンデやコンプレックスを乗り越えるために、本当に集中して勉強していました。そして、そこで夫は素晴らしい仲間と出会っているんです。」

藤巻さんがケロッグの授業を受けていたある日、後ろで日本語が聞こえた。声の主はビル・ジャービス、LawとBusinessのJoint Degreeでケロッグに在籍中の俊才だ。ビルは日本語を学んでいた。藤巻さんとビルはあっという間に打ちとけ、言葉の壁と国籍を飛び越えた親友となる。そのビルが、実は藤巻さんをモルガン銀行へと結びつけたのだ。

藤藤巻健史さんとビル・ジャービスさん

当時はアメリカ人でもなかなか日本へ入国するビザが取れない時代だった。藤巻さんは日本に注目しているビルの為に、日本で英語教師の仕事を見つけ、彼を日本へ呼び寄せた。ビルは日本滞在中に出会ったイギリス人女性と恋に落ち結婚。藤巻さんが三井信託銀行のロンドン支店に勤務になったことで、ビルの奥さんの実家と交流する。

ビルはアメリカに戻りニューヨークで弁護士として活動するも、転職を考えており、彼の得意先であるJPモルガンに履歴書を提出したと藤巻さんに話した。そして、藤巻さんにもモルガンへの転職を勧め、何とビルが藤巻さんの英文履歴書をタイプし、送付してくれたのだ!モルガン銀行転職の裏には、実はこのようなエピソードがあったのだ。その後もビルと藤巻さんの交友関係は、家族ぐるみで続いている。

藤巻健史さんとビル・ジャービスさんの家族

藤巻さんが目指すもの

藤巻さんは現在、金融コンサルタントとしてテレビや雑誌などで活躍する一方、一橋大学で講師を務めている。藤巻さんの願いは、若い世代がもっと金融について興味を持つことだという。

「日本ではどうも、お金儲け=悪、だという発想が抜けない。先物なんて、まさに投機的だと捕らえられていますよね。そういう考えだと、日本はずっと欧米に立ち遅れたままになります。」

藤巻さんの書は、一般の人の目線まで降りて、とても分かりやすく書かれているものが多い。時には自虐的なユーモアを交え、親しみやすいところが若い人たちの支持を得ている要因だ。

藤巻さんがトレーダーとして現役だった頃から比べて、今はずいぶん市場が変わってしまっている。個人投資家が増え、まったく金融知識を持たない一般人でも簡単に参入できるようになった。インターネットの普及などで、昔のようなプロとアマチュアの情報格差がなくなりつつある今、藤巻さんの強みは、誰にも負けないほどの「金融知識」と、それに裏付けられた「分析力」である。「フジマキに聞け」というキャッチフレーズのごとく、藤巻さんの意見を欲しがる専門家は後を絶たない。そして、専門家同士のコミュニティの中での意見交換が、藤巻さん最大の情報源となっている。

今回藤巻さんと待ち合わせたのは毎日放送「ちちんぷいぷい」の控え室。本番直前の貴重な時間を割いて取材に応じてくれた。「最近、俺の予想当たってないんだよなぁ…」と頭をかいている藤巻さんに、「あなたはゴッホだから、亡くなってから的中するんでしょう。」と綾子夫人が突っ込みを入れていたのが印象的だ。この先の日本経済が藤巻さんの予想どおりに動くのか、注目したいと思う。

藤巻健史さんと綾子夫人

取材・文責:ケイティ堀内

*この記事は、ケロッグ・クラブ・オブ・ジャパン(ケロッグ経営大学院 日本同窓会)が運営するサイト、ケロッグ・ビジネススタイル・ジャパン向けに執筆したものです。

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